ユナ旅モノガタリ 15カ国目 🇧🇦
サラエボスタック、ユナです。
今日朝の飛行機でイギリスに戻るつもりがフライトキャンセルからのデスクない、人いない、代わりのフライト探し、もろもろで疲れはてておるところです。係りの人いなかったから乗客のひとりだったおばちゃんが学級委員だった(笑)「私ドブロブニク(クロアチアの港町)行くけど他に行く人は手あげて、はいはいなるほど、あなた何席いるの?タクシーチャーターしていくとしたらみなさんバジェットは?」みたいな感じでちょっと見てて面白かった。私は横目にトルコ経由のスーパーロングフライトをパソコンぽちぽちしてました。貧乏旅行あるある。1ヶ月かけて上って来た道のりを飛行機2時間半で戻ることになった。およ?
ここからちょっとメモ書きなんだけど、ほとんどみなさんクロアチア発の飛行機を選んだみたいでみんなすぐいなくなっちゃって、エアポートとりのこされ。どっちにしろもう一泊サラエボは確定したからふーむって思いながらバスに乗ったら運転手さんすごいいい人で救われました、こころが。私の愚痴をひたすら聞いてくれて、携帯ホットスポットしてくれて、困ったことあったら連絡してって連絡先くれて。バスわざわざ宿の目の前まで乗せてってくれて。
宿もウォークインで見つけて事情説明したら、疲れてるでしょ空いてるベットで寝てていいよってチェックイン時間どころか朝の7時についたのに部屋入れてくれて爆睡。なぜかまちがったベットに案内されてたらしくごめんそこじゃなかったって3時間後に言われた。このゆるさも好きなんだけど。
これバルカンの人は本当に優しいって言いたい具体例たち。伝わって?そこら中で会話がポップする。優しくしてあげようとかホスピタリティ!みたいなマインドで動いてなくてそれが彼らの日常だから観光客に限らずえ?今すれちがっただけじゃないけ?ってテンションでコーヒーブレイクしてることたくさん(笑)
前置きはこんなくらいで、今回はバルカンの中でも特殊なボスニアヘルツェゴビナ、サラエボのお話をすこし。
サラエボって聞いてサラエボ事件!って思ったの私だけじゃないはず。歴史苦手でも知らない方がむずかしいくらい、第一次世界大戦のきっかけになってしまった出来事。
なにで緊張してたかわからなかったけど行ってみてきた、ほんとうに正直なんでもないシンプルな橋。サラエボの街は東西に長くのびていてその南側をはしる川にかかる橋のひとつ。
教科書の知識であの橋にたつとさ、このセルビア人の青年がオーストリア皇太子を暗殺しなかったら、世界中失われなかった命がたくさんあったのだろうかなんて考えも出てきたの。ただ今バルカンをまわって、ボスニア側の歴史(もっというとボスニアのボスニア人とセルビア人が対立させられてきた)をみると当時の大国がたくさんのきっかけとトラップを仕掛けてきた結果だと、きっと彼がこの事件を起こさなくてもきっと違う形で不満は爆発していたんだろうとベクトルが動いた。
たぶんサラエボってそれくらいしかイメージがなくて、学校の友達とかには危険じゃない行くのへいき?なんて言われた。(そもそもバルカン知らないレベルだった)いまだにボスニア紛争だったり、ユーゴスラビアの影がぬけない。
実際、ボスニアに住んでいる27歳以上の大人達はみんなボスニア紛争の経験者。ここにきて初めて、会話の中で「社会主義」とか「戦争」って単語を日々の中で使われているのを聞いた。絶対的ネガティブというよりかはたった20数年前の話なのと、ボスニアはバルカン戦争、世界大戦、そして紛争ってすごい道を辿ってきてるから昔はさ〜って話すよりもあの頃はってニュートラルに使ってる人もいる印象。
ゲストハウスのオーナーさんがすごい栄養とビーガンの関係性に興味がある人で、社会主義時代はチョコレートを見たことが一回しかなくて(彼女が子供の頃、お母さんがスペインから持って帰ってきたお土産だったらしい)食べるものもファストフードなんてなかったから野菜と果物を育ててたべて、たまにお肉みたいな生活をしてたって。だから心臓病とか糖尿病とかなる人が少なかったんじゃないかって話してくれた。ニュートラルの例え話。
社会主義ってワードだけ聞くとやばそう、ユーゴスラビアってなにって私はなってたけど、その時代を過ごした人と話してると飢餓で亡くなる人はいなかったし、思ったよりうまくやってたらしい until リーダーが亡くなるまで。そこからはスロベニアの独立をきっかけにどんどん解体がすすんでいった、この辺はウォーキングツアーに参加して当時小学生だったメリマさんから聞いた話。
ユーゴスラビアの解体がすすむ中でボスニアは多宗教国家で(ここがポイント、多民族国家とはすこし違うの。今、ボスニア人、クロアチア人、セルビア人って3つのカテゴリーがあるんだけどね、彼らは別にクロアチアとかセルビアからの移民ではなくボスニアの人々なんだけど信仰する宗教をもとに名前がわけられてる)これがざっくりいうと当時の大国たちに利用されてもともとは何の問題もなく一緒に暮らしていた人たちの中にナショナリズム的考えをほうりこんで争いをまねいた。
まとめるとこんな感じ。
だからボスニア系クロアチア人とかって言われたりもする。だって、クロアチアに住むクロアチア人とはちがうから。
この問題は今でも根深くて、ボスニアには3人の大統領がいて、歌詞のない国歌、意味のない国旗が街ではためいています。
歴史は説明するとながくなっちゃうね、読みにくそう。つまりこうなった。
スルプスカ共和国(セルビア人)vs ボスニア人/ クロアチア人
後者2つはもともと共闘したんだけど後々分裂してサラエボの旗取り合戦がはじまる。これがボスニア紛争のひとつまみ。
市街戦はなかったものの毎日200弾以上の銃弾や爆弾がとんできて、それが今も街に残る。
彼女いわく、これは別にあの頃を忘れないようにしようというよりは、20年で国を復興させるためには建物を直すよりも学校の建築とかほかにやらなきゃいけないことが山積みだったからこうなってるだけでまだ街はヒーリングプロセス。
サラエボは約4年スルプスカ共和国に包囲されて、でも、その中で人々は日常を築いていた。小学校は早朝7時から9時の2時間、abandonedカフェなど使ってクラスをやってた。中学〜大学はもとの建物をトタンや板で窓を塞いで使っていたそう、4年後街には窓がのこった建物がなかったくらいだったから。
サラエボの地形は包囲してる側からしたらスーパーラッキー。どこからでも狙いたい放題だもん。だから、大通りを渡るときはスナイパーに打たれないように走ってわたるのが原則だったくらい。
メリマさんに会う前に、当時の生活を記者がインタビューしたショートムービーを見たんだけど、大学生の女の子たちがあははって笑い合いながら、「ここの通りは走らなきゃいけないのよ、ほらスナイパーに見つかっちゃうから」ってゲームみたいに話すのが印象的だったの。落ちてきた(砲弾?)のかけらを集めて
「これは飛行機のやつで〜」
「えーちがうよ、こっちが飛行機でこれは銃弾だよ」
「あははそうだっけ?」
みたいになんだか宝物でも自慢してるかのように記者に話してるのも彼らが別世界に生きてるみたいで違和感だった。
でも実際話を聞くと、そうやってかなしい、つらい、怖いって感情を感じないように自分を守ってたんだと思う。当時、シアターとかもやっていたけれど決まって演目はコメディだけ。そうやって人々は4年という期間を生きのびたと知りました。
結論、じゃあ今のサラエボは?って聞かれたら、びっくりするくらい安全で人なつっこいボスニア人にしか会ってない(ここではわかりやすくボスニア人ってまとめたけど実際はそんなnationalityは存在しないらしく、、ちょっと巻きもどして読んでみて!)
みんな傷をかかえながら、それでも1993年よりはまし!っていうメンタリティで過ごしているそうです。サラエボに未来がないなら今ここに住んでないって言ったメリマさんの強い言葉と覚悟のような表情をしっかり覚えていようと思います。
弱者や敗者の声は歴史にのこらない、でもだからといってその声がなかったわけじゃない。
正しいことも正しくないことも起こったけれど、それが事実。
激動のバルカン半島でした。
と、すごい長い+ややこやしい話になったから反復してください(笑)3回目くらいでふーん、わからんこともないかもってなると思います。
さて、次のフライトは問題なくとぶことを祈って!finger crossed!
今回はここらでチャオ!読んでくれてありがとう!ファーラ!