ユナモノガタリ

温結びをしたい

ユナ旅モノガタリ 15カ国 (2)🇧🇦

 

どうも、この前、ふと小腹がすいたってスーパーでソーセージロールに手をだした時にはあ、染まってるって思ったユナです。やっぱりクラストがこぼれないお手軽感、レパートリー的におにぎりの大優勝です。

なーんの変哲もない

気がついたらオンオフもあったけれど、ユナモノガタリはもう5年目に突入してました。あの時、図書館のブースでひそひそ話しはじめたのブログ。ひとりごとをずっと読んでくれたあなたにはありがとうしかないです。

 

ようやく終わりが見えてきました、バルカン6週間の紀行文。

最後は、ボスニアヘルツェゴビナ。2つのエリア?からなる連合国家。私のイメージとしてはたぶんイギリスの中にあるイングランドとかそんな感じ。

 

ボスニアヘルツェゴビナ側とスルプスカ側。ここでは昔と言ってもまだ数十年前に、アウシュビッツに次ぐ規模の虐殺があった。ユーゴスラビアの歴史がかなりややこしいせいで全然知られてないけれど(少なくとも私は聞いたこともなかった)スレブレニツァって調べてみてください。概要的なことはこのブログの最後のほうに書いたので、よかったらななめ読みしてね。

earth-gal.hatenablog.com

 

話巻きもどして、前回、モンテネグロはKotorからバスで国境をこえ、たどり着いたのはMostar。

モスタル

薄れていく思い出の中でまだちゃんと太陽の感じを覚えてるモスタルのバス停から宿への道。急にちいさな町で、一瞬でモンテネグロよりも好きかもって思った。なにもないけど、なにもないから人の暮らしが見えるから、私はすきみたいです。

おいしいがすぎる1食目

町のモスク

お?

アラビアンナイトの気分

ここでのキーパーソンは2人。ミゲルとマヒアン。

ミゲルは同室になったスペインの大学生。ふと荷物片づけながら話し始めて、なら夜ごはんも行こうってなったんだった。旅の経験が豊富で、まだ知らない国や人の話をきくと、自分も冒険を着るような感覚で、気づいたらにやにやしてた。彼はいまベトナムにいるようで、旅してる姿見るたびリマインダーなのよね。またいつか会って話できたらって思うそんな人。

 

もう1人はパリ育ちのスーパーinteresting lady. カナダ横断をヒッチハイクだけでやっちゃって、会った時はリモートのお仕事をしながら、settleする場所を探してた(最近ローマに引っ越したの聞いたんだった)

たしか私より6、7歳年上なんだけど、今はフィルムカメラlearning中ってお茶目な目で言ってくるからずっと好奇心と友達な人なんだと思った。ピュアソウルの持ち主だと直感で感じた。

モスタル2日目にそんなマヒアンと1日ヒッチハイク。ちなみに1日目はモスタルの町歩き。もしいく機会があれば、ちゃんとグリップのある靴を履くのはマストです。中心部は石畳なんだけど、人が歩きすぎてつるっつるなってたので。私は滑りちらかしてた(笑)本当に知らない人にソーリーって言いながらペンギンみたいに歩いてました。

夕陽は最高のオプション

ランドマーク

credit: マヒアン


はい、マヒアンとのヒッチハイクふりかえりしてもいいかな?

まず、なんでそうなったかというとモスタルって3つくらい行くといいよって場所があったの。

まだあった地図、真ん中あたりの3つ

 

ただ、どれも離れてて車がないと移動ができないからツアーに参加してor rent a carってなってる(バスはない)その話を聞いてた宿のオーナーが明日の朝そのうちのひとつになら送ってあげるって申し出てくれた。だから、それなら他は行ってから考えようかってなったわけ。

優しいオーナー

1つ目はBlagaj. 読みかたわすれちゃった。

ここは紛争の時にも戦火を逃れた、ひっそりと隠れた場所にあるオスマン帝国時代の修道院

崖に埋まってるみたいな

中のおへや

コーラン

この模様すき

ここからは、アメリカに住んでる現地のご夫婦が乗せてくれた。「こんなところでヒッチハイクしてる子たちに会うなんて思わなかったわ」なんて言いながらわざわざ戻ってきてくれた優しいお方。

 

次の目的地はPocitelj. ポチテリ。ポテサラ?

城壁に囲まれた中世とオスマン帝国時代の古い街。ここの建物はすこし見覚えがある感じだった。武家のお家みたいなスタイルだったの。入り口にちいさな門があって、瓦みたいなのがかぶさってたから、あれま?って思った。

ポチテリ

トルコのキリムに似てる

2つ目の場所から滝までは、ローカルボーイズたちが乗せてくれて。英語もなんにも伝わらなかったけど、なぜかSpotifyの音楽を交換して、なんだか楽しくなりながらも送り届けてくれて。

けっこう移動してくれた

滝からはちょっと難しかった。まず、そこで働いてる2人がジャンクションまで行ってくれて。

ペトロ右正面のやつ

 

そこが車が止まりにくかったからどうしようってマヒアンと話して、ガソリンスタンドでペンとノートを借りて小さなサイン作った。そしたらレジのお姉さんが、ヒッチハイクしてることを知ってわざわざ裏に行って大きめのコピー紙をとってきて”MOSTAR"って書いてくれたの。

 

その後ピックしてくれたのは、カリブ海のクルーズ船で働いていたお兄さん。話してるとバルカン人としての誇りがあるんだなってすごい感じた。

これはマヒアンも一緒。European citizenとしての意識がつよい。実際、旅の途中で会った大陸の人たちはエラスムスの学生だったっていう人が本当に多いし、みんなすごい自由に行き来してて、国と移動というより県またいでる感覚。シェンゲン内だとパスポートスタンプすらないしね。

でも、このあたりの人はヨーロッパというよりバルカンとしての帰属意識がある気がする。ここはまだ20年前の戦争から変われてなくて、観光もまだまだだけど、バルカンの自然は美しいし、人は優しいって。

本当にその通り。話している時、ボスニアの北とちなみをつなぐ高速の工事現場がみえて、この国だけじゃなくてこのエリアは5年、10年で大きく変化していくんだと思った。人の行き来が変わる。まだ観光客慣れしてなくて素朴な人々に出逢えてよかった。ホームみたいであったかい。

あったかい場所

おいしいごはん

 

はてさて、前に話したミラクルストーリーの台湾の女の子を覚えてる?

この滝に降りてく道で偶然すれちがったの。まずアジア人が少ないからそれだけでちらっと顔見たのね、そしたらあれ?見たことあるなってなって。JKテンションでの再会。お互い話聞かないくらいなんでなんでって興奮状態。もっとびっくりなのが、アシュリーが一緒にいた男の子がこれまた偶然マヒアンが前の都市で会ってた人だったの。だからわかるかな、2組がわたわたしてる図。こんなことある?あるのかな?でもあったな。こんなことばっかり起こるからもう繋がってるとかwritten説を信じてしまうね。

Trebizat

 

箸休めストーリーはこれくらいで。ここでモスタル、しいてはボスニアの歴史を話させて。

というのも、ヒッチハイク帰り道、かつて現役だった戦車を町の郊外、学校の反対側で見かけたし、ふと通り過ぎたabandonedの建物は当時スナイパーが使っていた見張り塔だったらしい。

 

ここでは大きな民族対立が1980年代に起きてた。これは当時の大陸がしかけたそうで、それがまだ人々の中に深く根付いてしまってる。

戦争前は民族に関わらず結婚もできた。今ではありえないこと。学校も民族ごとに別のことが多く、一緒でもLanguageとHistoryは別クラス。それぞれ見ているものが違うから。

争いはおわっても相容れない。もちろん(特に若い世代)別民族と友達同士ってこともあるらしいけど、家族や身内が殺されたりした人は、まだ兵士側だった相手を許せない、割り切れない人も多いそう。そりゃそう、たった20年。ちょうどmiddle ageの人たちがその間にいるみたい。

いたるところに爪痕が残ってる。町の空白をうめるように書かれたRA81(赤軍1981年)のグラフィック。

こういうの

探さなくてもみつかる

 

戦争時、町はロードブロック(タイア積み上げ)で分断されてた。私はボスニアのこと全然知らなかったよ。ざっくり私より年上の人はみんな体験者だなんて、信じられなかった。そんな建物たちと混ざり合ってるもっと古いものは15世紀、オスマン帝国時代のものだったり、自分の中で消化できなかった今までで一番異様な町。

明るいグラフィックに書き換えられてるのも

どっち側がもっとかわいそうとか悲惨とかそういうことはなくて、バルカン半島ではどこも分断から独立、支配からの自由を比較的最近のりこえてて(現在進行形の場所もあるけど)それを私みたいなツーリストたちに伝えているっていうの印象的だった。

 

モスタルでの濃い2日間を大事に抱えて、ここからは電車でサラエボへ。

電車のチケットは手書き、見たことのない縦に細長い紙切れでした。知らない時代へのノスタルジアを感じながら、緑がつよめの山々を通り抜けていきます。

切符

朝日ながめて

 

読んでくれたあなたへ、ありがとう。

正直ちょっと長すぎるってつっこんでいいよ、レポートみたいになってるもん。

ふと思ったんだけど、ここに書ききれてない小さなエピソードっていくつかあるの。それを話すポッドキャストって面白そう。夜だからぽっと出てくるランダムなアイデアね。

 

うん、それじゃまた!チャオ!

Blagajの古城跡