ユナ旅モノガタリ 15カ国目(4)
ガマルジョバ、鼻がツンとするような眠気におそわれがちなユナです。ガマルジョバがどこのあいさつかピンときた人いる?わかったあなたはかなりトリッキーです友達になりましょ(笑)
最近また旅をしているのだけど、夏のような気候の場所から冬の始まりみたいな場所に移動したりといそがしめ。それは置いといて、宣言どおり、これで締めます。バルカン半島紀行まとめ。
2年過ごした(この日記を書いてたのが去年の今ごろなの)イギリスよりも心地の良い場所で、好奇心探られるし、人はいいし、ごはんおいしいし、お金のストレスフリーで本当に帰るのが嫌って思ってたよう。というかここまでイギリス合わなくなってたことに驚き。ずっと自分に言いきかせてた、いい人もいるじゃん、楽しくなってきたじゃんって。言霊だから。でも本音はきっとそれに反抗してた。
マレーシアの次に帰りたい。もっと冒険したい、もっと人を知りたい、もっと歴史も文化も理解したい場所。涙が出そうなくらいエモーショナルになってた。知ってほしいけどまだ秘密にしておきたい場所。
チープな感想だけど、ローカルの人も旅人たちも幸せな出逢いに満ちていた。旅人から話をきいて、行き先決めて、再会して、また別れて。世界はクレイジーで、自分の幸せを探すんじゃなくて、幸せの上に生きている人がたくさんいた。輝かしくて、十人十色のライフストーリー。なんてことなの!話がつきないよまったく。
思い返しても一瞬の6週間。どの国を思い出しても、どの街を思い起こしても誰かのかをが浮かびます。景色よか過ごした時間が思い出のまんなか。
世界の広さと小ささを知った。壮大で美しく、とてもwelcoming. こっちへ来てよくピュアって言われることが多いけど、たぶん違くて、私は見たいものをみて、自分が素敵だと思うことに意味をつけてるんだよ。
いつだったか、多言語で嫌なことを言われてもわからないでしょうって話をしてるお姉さんがいた。いやそれでもintention伝わるし、とかそういうことではなくて、キーポイントはなぜかって考えること。だって、理解してないから、言われた言葉に自分が意味をputしてないから。言われた言葉、見ている景色、全部最後は自分が選んでどう思うか決めてる。そういうこと。
もしかしたらこれを読んでる人は羨ましいって思うかもしれない、海外住んでるからできることって思うかもしれない。でも冒険はどこでもone step away. 気づけるかどうかは私次第。
シェフィールドに帰ってきてから5日目の日記にも似たようなこと書いてあった。
日常に体がなれてしまうのは早いけど、自分のすぐとなりにいつでも未知があること忘れてはいけない。冒険のことも考えながら、ここも大事にする幸せのバランスづくり。時間がないというのはいいフレーズで、私たちはsecureなライフを生きようとする。ただ旅のかけらを手にした今、リスクをとらんでどうする?忙しいってワードからすり抜けていくbeauty of lifeをキャプチャーしないでどうする?旅にいくと、それが上手くなる。
今通りすぎていったマミーがキッズに言ってた。"家帰ったらすきなだけ遊んでいいけど、not on the way back!" そうね、こういうコントロールももちろん大切。time is limitedだし、いつも自分の思い通りにするとtoo self-centredな人になってしまう。ただ子どもはmomentを生きるのがすごい上手ではっとしたよ。先のリスクやめんどくさいが先走って、今掴めるわくわくをこぼしそうになってた。ああ危ない危ない。ふう、ありがとキッズ。
大丈夫、大きく息をすって、体に風を通そう。もうみんな平気。
私たちみんな職人だから。スピリチュアルに聞こえたらそれは違うんだけど、人生はアートで、だからこそビビットでシンプルなオンリーワンの作品にしたいと思うんだ。すきなことにはすきと言って、わからない時はどういうことなんねって弱音をこぼせばいい。
ただ私はこれをやるために9-5をやめるの必要だと思わないし、それをロマンチックに語りたくはない派の人です。これから私で実験していくから。
ここまで18回?におよぶ2022年わたしの夏の記録を気長にまって、読んでくれて、ほんとうにありがとう。
まだまだ話しきれてないモノガタリはあるからふらっと見にきて。
次はどのお話にしようか?なんて考えるとどきどきしちゃう。なんでもあなたが感じたことを私も知りたいのでメッセージくれると喜びますあは
それではこれにてバルカン編(キプロス・トルコ含む)終わり!
リアルタイムだと旅5ヶ月目に突入してるのでまたそっちものらりとアップデートしてみる。チャオ!ラブリーな1日を!
ユナ旅モノガタリ 16カ国目🇦🇲
Youtuberの緊急で動画撮ってますはこんな気分なのだろうかと思いながら書いてみます、ユナです。電波よぼよぼの場所からなので、写真ほぼなしでとりあえず。のちのち更新するつもりで。
早速本編。
前のお話でたしかちらっと触れたんだけど、私はいまコーカサス地方を旅してます。
コーカサスは黒海とカスピ海に挟まれたシルクロードど真ん中。具体的には、ソビエトから独立したアルメニア、ジョージア、アゼルバイジャンの三ヶ国。地理的な要素のせいで、本当にややこやしい歴史を辿ったこのエリア。
ほんとは、のんびり紀行文しようと思ってたんだけど、そんな最中起きたアゼルバイジャンとアルメニア間の軍事衝突。今でも過去が過去になっていなくて、憎悪や複雑な感情が子どもたちにも引き継がれようとしているのをここ数週間見てきた。
このニュースがどれくらい報道されてるのかわからないけど、bbcとかNHKの記事は見た。ただ私がアルメニア人の方から聞いたこととは少し違っていたから、ここでそのお話をしようと思います。
ううんまずどこから始めたらいいのだろう。ざっくり何が起きてるか(というか起きた)を説明すると、アルメニアとアゼルバイジャンの係争地を、アゼルバイジャンが完全に掌握するために攻撃を始めた。私がネットの記事を読んだときに思ったのは、あれ、アルメニアサイドの話が弱い?ってことだった。
ここからは1週間ちょっと、私がアルメニアまわって出逢った人たちから聞いたこと。ちょっと政治なエレメントは避けられないけど、これもひとつの声として聞いてくれるとうれしい。(あまりニュートラルではないローカルのド主観意見もきっと含んでるのでご注意を)
今回火種になったのがナゴルノカラバフ。
なんで飛び地みたいになってるかはwikiの説明みてこれ。
ソビエト連邦崩壊後は国際的にはアゼルバイジャン共和国の一部とされているが、アルメニア人が多く居住しており、隣国アルメニアとアゼルバイジャンの対立の火種となっている。ナゴルノ・カラバフ戦争最中の1991年9月2日[1]に「アルツァフ共和国」(別称「ナゴルノ・カラバフ共和国」)としてアゼルバイジャンからの独立を宣言したが、国際連合加盟国から国家の承認は得られていない。
つまり、事実上独立したみたいになってる場所で、コーカサスの火薬庫って呼ばれることもあるくらい争いが絶えなくてすごく不安定だったの。
ある人はこうこぼしてた。「ナゴルノカラバフはコソボみたいになればいいのになんでそれが認められないのか」って。
アルメニア人はナゴルノカラバフを彼らの土地だと思っていて、直近の紛争でトルコの支援を受けたアゼルバイジャンの軍に歯が立たず、取られてしまったと認識してる印象を受けた。
といのも、元々ナゴルノカラバフがアルメニア人居住区であるのを知っていながら、ソビエト解体の時にアゼルバイジャンに併合されてしまって、アルメニア人としては自分たちの人々を守らなくてはというスタンス。実際、イスラム教のアゼルバイジャンの中、ナゴルノカラバフはキリスト教に関わる古い建物だったりがほんとうに多く残るところで、それはアルメニアが世界で初めてキリスト教を国教として定めた歴史とどっぷり結びついてる。ナゴルノカラバフ近くのアルメニア南エリアも行ってきたんだけれど、崖にぽつんと立っている教会や修道院、キリスト教に関係のある十字架がどこ向いても見つけられるくらい。
アルメニア人の宗教心は強くて(かつ世界初の国教化にプライドもってる)「アルメニア人でキリスト教を信じてなかったら、または信じたくなかったらどうするの?」と聞いたところ、そのおじさんは不思議な顔をした後、大声で笑いながら「そしたらその人はアルメニア人ではないよ」と。もうアルメニア=キリスト教は常識すぎるようで、そこにクエスチョンを持つのも面白かったみたい。ちなみに彼らは、ロシアのオーソドックスでもカトリックでもなく、アルメニアのオーソドックスという別のブランチを持っています。
そんな宗教も民族も対立するところに加えて、ナゴルノカラバフで現在進行形で行われているアゼルバイジャンによる支配の方法が彼らのアゼルバイジャン人に対するヘイトを増幅させているように感じた。
ナゴルノカラバフは直近の紛争(2020年)の後、ロシアの仲介で、このエリアとアルメニア/ アゼルバイジャンをつなぐ回廊をロシア軍によって監視させて、物資もちゃんと行き渡るようにするっていう約束があったんだけど、ロシアとウクライナのことがあったあたりから、この監視をアゼルバイジャンが乗っ取って、通行止めにしていたそう。
そして、ナゴルノカラバフ内で農業をしたり、作物を作ることは禁止。UNの支援物資も届かないようになっていて、貧困、飢餓が大きな問題になってた。
それでも、本当に体調が悪い人、けが人はその回廊からアルメニアに渡り、必要な治療が受けられるようにっていう取り決めもあったそうなんだけど、この軍事衝突がおこる数週間前、3人のおじいちゃんがそこを通ろうとしてその後行方がわからなくなった。今もどうなったかわからない、誰も知らない、知りようがないって言っていた。
私はこの大半の話をエレバン(アルメニアの首都)でのfree walking tourで聞いたんだけれど、この話を聞いたのが9月6日。その時、ガイドしてくれていたVakoが、アゼルバイジャンに攻撃用のドローンが他の国から移動したと言ってた。だいたい新しい武器が渡ると何かがいつも起こるから、ここ数週間は注意したほうがいい、とも。それが現実になったのが3日前の攻撃だった。
他の街を訪れた時に、オーストリア、チェコで生まれ育ったアルメニア人3人組から話を聞く機会があって、なんでもアゼルバイジャンの学校ではアルメニアを国として教えていないそう(正直これは全土なのか、極端な学校の話の可能性もある)。彼ら曰く、アルメニア人っていう民族が住んでるエリアだけど、国ではない。これも衝撃。
うん、ざっとこんなところ。
聞いたこと、読んだこと、確認しながらまとめたけど、認識がまちがってるところもあるかもしれない。そして、かなりわかりにくい話だとは思うから、それら全部最初にごめんねしとく。ただ、コーカサス地域を回っていて気づいたのが、ここらへん隣同士敵ばっかり。だから、国境越えるのが一方向にしかできなかったり、そもそも閉まっていたり、消化できない歴史が根深くあることを知った。ナゴルノカラバフのことも何にも来る前は、ワードさえ聞いたことなかったの。
だからこのあたりも、もう少しライトなお話とちゃんぷるしてゆっくり紀行文していくね。
今日はここまで、読んでくれてありがとう。
それではまた。
ユナ旅モノガタリ 15カ国目(3)🇧🇦
最近オイルパステル熱がまた湧き上がってきてます、ユナです。
去年の自分のバースデーに選んだプレゼントがオイルパステルで。今日はともだちお散歩に誘ってはじめて外でお絵かき会しました。夕方になると人でいっぱいになる遊具エリアもだれもいなくて、まあ楽しい楽しい。
そういえば、前のユナモノガタリで最近のジレンマを書きました。それへの答えがでたのですっきりしてます。ほんとうに心からいい人たちに囲まれて過ごしてるなってすごい思ってる。私が怖がっていたのはリアルに起きうる数日後、数ヶ月後のイベントじゃなくて、fear of missing outだわ。自分のする決断が正しいのか、逢うべき人に出会えるのか、価値のある時間をすごせるのか。もしかしたら、もっとできたかもしれないって本当にしたことよりもやらなかった方の自分を責めがち。だから自分ができなかったことをやってのけてしまう人が羨ましくて、ずっと邪魔してきてた。嫉妬の感情がどこからわいてきてるのかわかった。
これ伝わるかわからなくて、あんまり人に自分のvulnerable見せないから不安だったけど、信頼できる人に話して気づいたこと。この根っこはget rid ofできないけど、共生していくことはできるね。だから今回のこれは私のこころなりの反逆だった。限りなくsosに近いやつ。だから私が考えなくていいように隠して、でも頭はそこにコアがあることを分かってたからずっとこの2つがかみ合わなくてstressed out. ネガティブな感情に向き合う時、相手の他のものと比べてっていうprivilegeでバランスとるのは合わないからもうやめましょう。
今おおきなありがとうがあって、自分が余裕の時は人のguidanceとなり、助けてほしい時は生徒としてサポートしていけるようにできてるんだきっと。人に生かされてるって思うのは、人から学んで、人から愛をうけて、人から自分を認知する。だからかな、人に返したいって思うのはなにも難しい感情ではないのよ。
私なりのありがとうの繋げ方が綴ることみたいなので、みんなもう少しつきあってね(笑)
話はボスニア。モスタルからサラエボの話をぎゅっと濃縮すると、
ミュージアムに行ったり、丘上りをしたりしながらサラエボ2泊。
1日どうしても好きになってしまったチェバビの有名な町、Travnikへ片道2時間のおでかけ。サラエボ戻って、ボスニアからイギリス飛ぶつもりが飛行機キャンセルでイスタンブルへ舞い戻り。
今からのお話はサラエボ市内に戻ることになったところから。
まず言いたいこと、ど早朝のフライトだったんです。たしか6時とか。バスもなんにもないから、前日は空港近くのエアビー取って、サラエボ市民に混じりながらトリレチェっていうバルカンのおやつを食べてました。ちゃんとしたシャワーもあるところだったから、もう全てがうまくいきすぎてなにか起きそうっていう胸騒ぎはしてましたとも。
朝4時、真っ暗の中、40分歩いて空港着。
なんか人がざわざわしてるなと思ったら、私のフライトでした。キャンセルの理由は、飛行機が来なかったから(?)次の飛行機は2日後にやってくるとだけ伝えられて、あーれま、なんか嫌な予感当たっちゃった、はあextra costじゃんなんて思ったよ正直。
バス乗ってから宿に着くまでのことは前に触れてたから割愛。バルカンの人良いってどういうことって思ったらこれの最初の方読んでみて、きっと伝わるから。
unexpectedなフライトチェンジだったけど、朝の静かな旧市街とラヤの活気溢れる(ちょうどその日がイスラム教イードのお祭りだった)街を見ることができた。マヒアンにもう一度会えるサプライズまで!
偶然ホステルで会った香港のお兄さんはウクライナ、キーウの大学を卒業して、ブチャで先生をしていた人で。彼は、戦争が始まる2日前に、ビザの関係でウクライナを出ることになったら、帰れなくなったって言ってた。自分の知ってる友達やカフェやレストランで働いてた知り合いが戦争にかりだされて亡くなったって連絡を受けることもあるって話してくれた。
この話を聞いてから、サラエボのwalking tourに参加したから余計に考えることもあって。ぜんぶリアルに起きてる話。戦争で亡くなった人は数でニュースになるけれど、彼ら一人ひとり私たちの友達だったかもしれない人たち。そんなことを思いながらツアーの話を聞いていました。今に繋がってる話を過去にするのはちがう気がする。いつだったか、震災の後、三陸に行った時に仮の建物に作られた記念館で「祈るには早すぎる。私たちにまだできることは何か?」って書いてあった。(一語一句は覚えられてないのだけど)
きっとこれも同じ話。まだongoingなこと。
実際、ボスニア・ヘルツェゴビナには民族間のいざこざがまだ残ってる。首相は数ヶ月に一回、ボスニア人、クロアチア人、セルビア人の代表者をローテーションする形になっているし、争いのひどかったサラエボを含むボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の国旗はいまだに定められていない。国家としての国旗は、争いを生まないために外国人によって作られた意味をもたないもの。国家はメロディーだけで歌詞はない。
私がいた日の近くがスレブレニツァのジェノサイドがあったタイミングだったから、街中で追悼のために走る100なんて数ゆうに超えちゃうバイカーと遭遇。町の人、エアポートスタッフやバス、電車のスタッフまであの白と緑の花を身につけてた。
これちょっと脱線だけど、イギリスではポピーの花が使われます。大戦が終わった後、何も残らなかった大地ででもしっかりと根を張って咲いていたのがポピーで、それ以来平和のシンボルのように扱われてるそう。あまり若者でつけてる人がいるイメージはないけれど、7、8月ごろにはそれをブローチのようにつけたり、バスの塗装を変えたり、いろんな形で見つけることができます。
こんな話も、ホステルで一緒になったオーストラリア人のおじいちゃんとゆっくり交わしながら空港に向かった。ウクライナのこと、ボスニアのこと、何時間もフライト出るまで話した。シドニー出身のおじいちゃんはリタイア後ポルトガルのポルトに移住したみたいで、ひとつ良いアドバイスをくれた。
「人が生きる上でdecent weatherとメンタリティの余裕が持てる場所を選ぶこと」
まちがいないよなあ、
そんなこんなで舞い戻ってきました、トルコ。
アジア側、カディコイは1ヶ月前と違ってみえた。心の余裕かなって思ったり、イードだったのもあるし、最後!って自分にも言い聞かせてたからか、前はいらいらした人ごみが活気だった。この旅のおわりにふさわしすぎる冗談かい?ってくらいの夕陽+堂々たるモスクたち。綺麗なもの見たり感動するとため息がでるってほんとだった。
その後、直感で食べたサバサンドはうま、ふわ、じゅわだったし、前に可愛いって思ったハンドメイドの雑貨屋さんこっちだって曲がった角の横にあったのはさすがにびびった。
バグラバ屋さんの女の子はすごくウェルカムで学生トーク盛り上がっちゃったし、出国のスタッフは絶対いらんことまで聞いてた(笑)
空港着いてイミグレ通るときなんだけど、名前呼ばれたからなにかのQsだと思って真剣な顔したら(未成年に見られがちだからちょっとでも信頼感をだそうとしてる)、”Good morning!(これsunshineタイプのぱあっと笑顔ね)”
そりゃ笑っちゃうでしょう。朝5時のテンションではないのよ。続けて、”トルコ好き?今日はどこ行くの?(チケットに書いてある)シェフィールドってどんなところ?いつトルコ帰ってきたい?”すごい圧じゃんあは
最初ブックした時(オリジナルフライトキャンセルなった日)には、トランジットが11時間もあって、もうエネルギーもでてこないし空港泊でいっかって思ってたくらい。
ここまで楽しんで、笑って終われたのはきっとアンガスのおかげでした。アンガスはアルバニアで出逢ったインスパイアの塊のような人です。それを分け与える様子はもはやあんぱんまんでは?
その時のお話はここにあるよ、もし気になってたら。
トルコフライトの話をして、空港でてトラベルしたらいいじゃんって一瞬でメッセージきた時は、もうこっちは疲れてきてるんだわって思いましたとも。ごめんよ。でもそう言ってくれたから、エアポートからカディコイバス調べたし、宿ブックする気にもなったの。ちょっと注意書きしておきたい、私がlazyなのもあるけど、空港から市内まで、感覚の距離は成田から東京都内です。layoverで出るにはちょっと考えものな時間帯でもあったからうううってうなってた。のり気じゃなかったけど結果大成功。
この体験でなんか無双状態になったところでもう1つのレッスン。
うまくいくような気がしてたのは、帰るの嫌って言ってもいいんだって教えてもらったから。嫌 ≠ 決断をまちがえたが成立しないことも。だから、もう嘘つかなくていいし、何が自分に合ってるのか見つかっていくのピース探しみたい!
こんなことを書き留めながら空港のカフェでシミットを食べながらゲート待ちしてたみたいです。
ふう、ようやくお話イギリスに戻ってこれた。あと一回だけキプロス・トルコ・バルカンの旅のことを残すので、またふらっと遊びにやってきてやってください。たった6週間をまとめるのに1年はさぼりすぎね。あー長かった。
それではあなたの1日、なんて言わずに1週間があったかいものになることを願って!
アディオス!
p.s. おいしいご飯(主に肉)を載せきれてないからこちらへどうぞ。
ユナ旅モノガタリ 15カ国 (2)🇧🇦
どうも、この前、ふと小腹がすいたってスーパーでソーセージロールに手をだした時にはあ、染まってるって思ったユナです。やっぱりクラストがこぼれないお手軽感、レパートリー的におにぎりの大優勝です。
気がついたらオンオフもあったけれど、ユナモノガタリはもう5年目に突入してました。あの時、図書館のブースでひそひそ話しはじめたのブログ。ひとりごとをずっと読んでくれたあなたにはありがとうしかないです。
ようやく終わりが見えてきました、バルカン6週間の紀行文。
最後は、ボスニアヘルツェゴビナ。2つのエリア?からなる連合国家。私のイメージとしてはたぶんイギリスの中にあるイングランドとかそんな感じ。
ボスニアヘルツェゴビナ側とスルプスカ側。ここでは昔と言ってもまだ数十年前に、アウシュビッツに次ぐ規模の虐殺があった。ユーゴスラビアの歴史がかなりややこしいせいで全然知られてないけれど(少なくとも私は聞いたこともなかった)スレブレニツァって調べてみてください。概要的なことはこのブログの最後のほうに書いたので、よかったらななめ読みしてね。
話巻きもどして、前回、モンテネグロはKotorからバスで国境をこえ、たどり着いたのはMostar。
薄れていく思い出の中でまだちゃんと太陽の感じを覚えてるモスタルのバス停から宿への道。急にちいさな町で、一瞬でモンテネグロよりも好きかもって思った。なにもないけど、なにもないから人の暮らしが見えるから、私はすきみたいです。
ここでのキーパーソンは2人。ミゲルとマヒアン。
ミゲルは同室になったスペインの大学生。ふと荷物片づけながら話し始めて、なら夜ごはんも行こうってなったんだった。旅の経験が豊富で、まだ知らない国や人の話をきくと、自分も冒険を着るような感覚で、気づいたらにやにやしてた。彼はいまベトナムにいるようで、旅してる姿見るたびリマインダーなのよね。またいつか会って話できたらって思うそんな人。
もう1人はパリ育ちのスーパーinteresting lady. カナダ横断をヒッチハイクだけでやっちゃって、会った時はリモートのお仕事をしながら、settleする場所を探してた(最近ローマに引っ越したの聞いたんだった)
たしか私より6、7歳年上なんだけど、今はフィルムカメラlearning中ってお茶目な目で言ってくるからずっと好奇心と友達な人なんだと思った。ピュアソウルの持ち主だと直感で感じた。
モスタル2日目にそんなマヒアンと1日ヒッチハイク。ちなみに1日目はモスタルの町歩き。もしいく機会があれば、ちゃんとグリップのある靴を履くのはマストです。中心部は石畳なんだけど、人が歩きすぎてつるっつるなってたので。私は滑りちらかしてた(笑)本当に知らない人にソーリーって言いながらペンギンみたいに歩いてました。
はい、マヒアンとのヒッチハイクふりかえりしてもいいかな?
まず、なんでそうなったかというとモスタルって3つくらい行くといいよって場所があったの。
ただ、どれも離れてて車がないと移動ができないからツアーに参加してor rent a carってなってる(バスはない)その話を聞いてた宿のオーナーが明日の朝そのうちのひとつになら送ってあげるって申し出てくれた。だから、それなら他は行ってから考えようかってなったわけ。
1つ目はBlagaj. 読みかたわすれちゃった。
ここは紛争の時にも戦火を逃れた、ひっそりと隠れた場所にあるオスマン帝国時代の修道院。
ここからは、アメリカに住んでる現地のご夫婦が乗せてくれた。「こんなところでヒッチハイクしてる子たちに会うなんて思わなかったわ」なんて言いながらわざわざ戻ってきてくれた優しいお方。
次の目的地はPocitelj. ポチテリ。ポテサラ?
城壁に囲まれた中世とオスマン帝国時代の古い街。ここの建物はすこし見覚えがある感じだった。武家のお家みたいなスタイルだったの。入り口にちいさな門があって、瓦みたいなのがかぶさってたから、あれま?って思った。
2つ目の場所から滝までは、ローカルボーイズたちが乗せてくれて。英語もなんにも伝わらなかったけど、なぜかSpotifyの音楽を交換して、なんだか楽しくなりながらも送り届けてくれて。
滝からはちょっと難しかった。まず、そこで働いてる2人がジャンクションまで行ってくれて。
そこが車が止まりにくかったからどうしようってマヒアンと話して、ガソリンスタンドでペンとノートを借りて小さなサイン作った。そしたらレジのお姉さんが、ヒッチハイクしてることを知ってわざわざ裏に行って大きめのコピー紙をとってきて”MOSTAR"って書いてくれたの。
その後ピックしてくれたのは、カリブ海のクルーズ船で働いていたお兄さん。話してるとバルカン人としての誇りがあるんだなってすごい感じた。
これはマヒアンも一緒。European citizenとしての意識がつよい。実際、旅の途中で会った大陸の人たちはエラスムスの学生だったっていう人が本当に多いし、みんなすごい自由に行き来してて、国と移動というより県またいでる感覚。シェンゲン内だとパスポートスタンプすらないしね。
でも、このあたりの人はヨーロッパというよりバルカンとしての帰属意識がある気がする。ここはまだ20年前の戦争から変われてなくて、観光もまだまだだけど、バルカンの自然は美しいし、人は優しいって。
本当にその通り。話している時、ボスニアの北とちなみをつなぐ高速の工事現場がみえて、この国だけじゃなくてこのエリアは5年、10年で大きく変化していくんだと思った。人の行き来が変わる。まだ観光客慣れしてなくて素朴な人々に出逢えてよかった。ホームみたいであったかい。
はてさて、前に話したミラクルストーリーの台湾の女の子を覚えてる?
この滝に降りてく道で偶然すれちがったの。まずアジア人が少ないからそれだけでちらっと顔見たのね、そしたらあれ?見たことあるなってなって。JKテンションでの再会。お互い話聞かないくらいなんでなんでって興奮状態。もっとびっくりなのが、アシュリーが一緒にいた男の子がこれまた偶然マヒアンが前の都市で会ってた人だったの。だからわかるかな、2組がわたわたしてる図。こんなことある?あるのかな?でもあったな。こんなことばっかり起こるからもう繋がってるとかwritten説を信じてしまうね。
箸休めストーリーはこれくらいで。ここでモスタル、しいてはボスニアの歴史を話させて。
というのも、ヒッチハイク帰り道、かつて現役だった戦車を町の郊外、学校の反対側で見かけたし、ふと通り過ぎたabandonedの建物は当時スナイパーが使っていた見張り塔だったらしい。
ここでは大きな民族対立が1980年代に起きてた。これは当時の大陸がしかけたそうで、それがまだ人々の中に深く根付いてしまってる。
戦争前は民族に関わらず結婚もできた。今ではありえないこと。学校も民族ごとに別のことが多く、一緒でもLanguageとHistoryは別クラス。それぞれ見ているものが違うから。
争いはおわっても相容れない。もちろん(特に若い世代)別民族と友達同士ってこともあるらしいけど、家族や身内が殺されたりした人は、まだ兵士側だった相手を許せない、割り切れない人も多いそう。そりゃそう、たった20年。ちょうどmiddle ageの人たちがその間にいるみたい。
いたるところに爪痕が残ってる。町の空白をうめるように書かれたRA81(赤軍1981年)のグラフィック。
戦争時、町はロードブロック(タイア積み上げ)で分断されてた。私はボスニアのこと全然知らなかったよ。ざっくり私より年上の人はみんな体験者だなんて、信じられなかった。そんな建物たちと混ざり合ってるもっと古いものは15世紀、オスマン帝国時代のものだったり、自分の中で消化できなかった今までで一番異様な町。
どっち側がもっとかわいそうとか悲惨とかそういうことはなくて、バルカン半島ではどこも分断から独立、支配からの自由を比較的最近のりこえてて(現在進行形の場所もあるけど)それを私みたいなツーリストたちに伝えているっていうの印象的だった。
モスタルでの濃い2日間を大事に抱えて、ここからは電車でサラエボへ。
電車のチケットは手書き、見たことのない縦に細長い紙切れでした。知らない時代へのノスタルジアを感じながら、緑がつよめの山々を通り抜けていきます。
読んでくれたあなたへ、ありがとう。
正直ちょっと長すぎるってつっこんでいいよ、レポートみたいになってるもん。
ふと思ったんだけど、ここに書ききれてない小さなエピソードっていくつかあるの。それを話すポッドキャストって面白そう。夜だからぽっと出てくるランダムなアイデアね。
うん、それじゃまた!チャオ!
ユナモノガタリ その22
最近presentにいないユナです。
気づいたらいつも未来のことをプランニングしてるか思い出をめくってる。こころが騒がしめだったのはきっとこれを伝えようとしてくれてたのでしょう。ちょっと落ち着いてほしいものだわってってexternalなものでentertainしようとしていたけど、きっと聴けていなかったの。いや、なんか違う?
こころが何かに気がつかないようにずっと話しかけてきているような感じ。でも頭はそれがpretendingだってわかってるから、ほらこれってどうかしらって提案したら、すごくそれを嫌がって怖がってる。あれ、これサンチャゴの話に出てきたな。たしか、頭で思い描いていることに自分が値しないと気づいてしまったり、それを実現するのが不可能だとわかって傷つくのが怖いからちまちまdistractして私がしたいことをやめさせようと企んだりする。でも、この前友達が言ってた "Regret is better than doing nothing" ってのがすごい残ってる。そんな感じであたまとこころを揺蕩っているくらげの気分です。
今回は旅のお話じゃなくてわたしのお話。
この前、spontaneouslyにキャンプへ行った。イギリスはなぜかとてもアウトドアが盛ん(poshではないけどイメージ的にはちょっといいスタンダードのファミリー)この感じがラグビーファンは紳士的でwealthyな人が多いって言われるのに似てるのかな。
途中で小中学生くらいの子どもがクリケットしながら「ここウィードの匂いするー」って笑いあってたの聞いてイギリスらしいって思った。なんと不名誉。Oh Bless. そんなに小さい頃からわかるくらい街角で嗅いだりするからだけど、なんかね、考えたよ。親もべつに驚いてるとかはなかったし。この隣にいた家族がすごくおもしろくて微笑ましくて、一緒にいた友達とテントの中でも笑ってたくらい。お母さんはギブアップ、ボーイズ3人はずっと質問して走り回って、お父さん途中でリタイア。
通ってるくらいのピーク国立公園なんだけど、またべつの濃さがある時間だった。こういう空気感もそうだし、その中で波長の合う友達とたくさん話して。私はきっとselflessな愛を友達にも見つけたいんだと思う。
ここ最近ちゃんとイギリスの天気だったのに、なぜか雲ひとつない夕焼けだった1日。ずうっと広がる草むらが私になるのを後押ししてくれてた。どこまでも走っていけたし、寝っころがって地球のまるを見れたし、ラプンチェルのように裸足ですこし湿った草と土を感じることができた。
夕方の日が落ちて、暗くなる前に空がいろんな色に模様替えするでしょう?
その時間の空気と匂い、少しぼやっとした視界は普段とは全くちがくて、その中に自分がいるっていう感覚、castletonでのovernightは初めてだったのになつかしかった。
2年前のprimrose farmで過ごした3週間に似てた。
あの時のことはなんだか言葉にできなくて、ずっと大切にしてた時とひとびと。イングランドのお隣、ウェールズの小さな村のはしっこにあった場所でノスタルジアな子供時代みたいな夏の終わりを過ごした。
そこは私の先生みたいな人たちばっかりで。友達みたいだけどもう少し脆いところを共有してくれる人だったり、自由を体現してる人だったり、一期一会の結び目をつないでいく人たちがいた。あの場所でforagingを教えてもらった、その時の感じにすごく似てた。
もしイギリスでHay-on-wyeっていう本の村に来る機会があったら土曜の青空マーケットでPrimrose farmの人たちがお野菜売ってるのでぜひ話しかけてみて。絵本の中のキャラクターみたいな空気感なのよ。
あの時の感覚を思い出しながら、帰ってきたいま、me timeへのチェックインしてみよう。ああ久しぶりすぎて、やり方をすこし忘れてしまった気がする。
まわりの変化に置いてきぼりになってる。さよならがいっぱいでうまく消化できない。
かなりの乱文生み出してるけど、いいとか悪いじゃないお話がしたいです。
会いたい、話したいって思ったらその時に連絡しよう、大事にしようって聞くけれど、それが家族じゃなかったらどうなんだろう。
私の大切な人たちは遠くにいても、どこにいてもいつかまた会えるってわかってるから、だからこそ、それまでに自がすなおに誇れるようなそんな人になっていたいってモチベーションになる。
ただそれがこれから仲良くなれそうって思ってる人だったらどうしたらいいんだろうね。
きっともう会えない人を追えないけど、それでも心地よい空間をつくってくれる人たちだったのに。
大人になるとややこやしい。難しくするのが上手になっちゃった。
そういうintentionなしでも会いたいって言いたいのに、あなたたちのこと知りたいって純粋におもってるのに、個々でもそういう繋がりほしいのに、
いつからクールに装って、知らなかったら隠して、まちがえたら恥ずかしくて、全部すんじゃってから気づいて。
こころの声とあたまのバランスがかみ合ってないとちょっと疲れちゃうね。
ということで?また今週末ピークに篭ろうとおもいます。
特におちもないのだけど、いつぞやぶりにユナモノガタリに戻ってみました。
ここまで読んでくれてありがとう。
最近もらったキーワードは"Am I feeling peace?"
もしこの答えがわからなかったり、noだったらきっとなにかが合ってないから一緒に悩みましょ(笑)
みんなの1日がはなまるでありますよう!チャオ!
ユナ旅モノガタリ 14カ国目 🇲🇪
ちゃんと期待(希望)をうらぎらないイギリスからこんにちはユナです。
朝はしっかり晴れてたのに、1週間ぶりの太陽だったのに、マンチェスターから帰る電車の中、gloomyになった天気が嘆かわしい。でも、ピークを越えてく風景をみてると、私の人生これからの中でも国立公園を超えてお仕事いくって経験はきっとない。ほんとうに愛おしいことが日常に書きとめられて気がつかないのはもったいないことね。ありがとうの恩送りには敏感でいたいのです。
今日はところ変わってモンテネグロ、KotorとPeratに凝縮した3日間のお話。
忙しすぎてわたしの日記数日間からっぽ。ちょっと駆け足になるけど、はじまりはじまり。
最初ついたときは発展しすぎててびっくりしちゃった。実は、モンテネグロ、EU国。最初はんーって思って、来たのまちがってたかなって不安になったけど、walk-inで見つけた宿が大当たり!
受けつけの人となんでか意気投合しておしゃべりしてたら「クラシック興味ある?」って聞かれて、なんとその夜行われてた野外クラシックコンサートのチケットをいただいてしまって。
というのも、その人シフトが入ってしまったからいけない⇨捨てるのもったいない⇨なんか音楽すきとか言ってる旅人きた(わたし)ということだったらしい。
ああなんてこと、ありがとうスキップで町にくりだした。この宿は旧市街ど真ん中。ここのold townはold-new townになってたけど、それでも入江の綺麗さは変わらない。海より湖とかが神聖視されるのわかった気がした。
さてさて、お腹もすいたし腹ごしらえ。ここで今まででいっちばんおいしいバーガー食べたの、未だに不動。もう人ごった返しててんやわんやの店内。
いつぶりかしらってくらいでアジア人の女の子に会って、旅してるの?なんてお話した。台湾からやってきた彼女は春と夏をめいっぱい使ってヨーロッパを周ってた。ちょっとこの後のクレイジーストーリーに繋がっていくからどうか覚えといてね。
私はわたわたご飯食べたくなかったから旧市街の外壁跡に登ってみて、入江が見えるところで食べたの。
もりもりかぶりついてるの微笑ましそうに通りすぎてったファミリーがいたなあ。もう周りのこと気にしてられないくらいのおいしさだったから、ひとりごとたくさん出てきちゃうわけ。もしモンテネグロ、コトーに行く機会があったらもうぜひここ行って。
さて、気分変えよかって宿ちがうところにbookしなおした2日目。
もうみんな偶然ストーリーに疲れてきてそう(笑)でーもーとまらなーい。
その予約した宿がトルコの国境町エディルネで会ったジョセフと一緒だったの。しかもエディルネで会ったのもたった一瞬、私がホステル去る直前にチェックインきて。ふとおしゃべりしてみた。イギリスの人だったから、勝手に親近感。もう逆になんで?なにがどうなって?もはや偶然なんてことはないのかも。不思議な物事はくさりのようにどこかで繋がっていて、順番じゃなくても5年後とかに伏線回収してきたりする。あれ?ってなると、おおきな流れのことを思いだして、腑に落ちる。きっとこれをcarefullyに辿っていくと、私のほしいものに到着するような気がしてる。ざっくり80年の壮大な物語。いまは承あたりなのかな。まだ起きてもないかもしれないね。
ティーネイジャーの時にちょっとした夢があったの。隠れ家みたいな場所で人のライフストーリーを聞いて製本する人。お薬調剤するみたいに、その人に合わせた皮の表紙をえらんで、彼/ 彼女のお話をまとめて、丁寧に紙を編んで、まだ終わらない本をつくる。ルリユールっていう職人仕事なんよ。素敵でしょう。
はーい、線路もどして、ミラクルジョセフ、せっかくだから夜ご飯する約束してそれまで要塞に登ってみる。旧市街見下ろす要塞跡、このスタイル見かけること多くて、日本のお城と城下町だなって思ったりなんかもした。
ここの要塞跡、正規ルートが正面にあって、入場料はらって数百段の階段をひたすらに登るっていう過酷きわめる道と反対から、ヤギを横目に坂道のぼって、要塞の裏側、壁のすき間に手作りで取り付けられた危険は承知でどうぞのラダーから入る方法と2つ。私はもちろん裏側です。人もいなかったし、はしご登るのおもしろそうだったし。
くもり空で、風も吹いてきて、もう夕日みれないかと思いながら行ってみたんだけど、上でアメリカ人のアンナに出逢って、ずっとしゃべってたら急に晴れてきて、入江の向こう側に消えてく太陽を見れましたとさ。
海がだいすきなアンナは、いろんな国を旅して、港町に行って、船で過ごした話をたくさん聞かせてくれた。すきを追い求めるとあんなに魅力的な目で話伝えられるんだ、私もおなじもの見てるような気になった。あのほら、鳥を見てると自分も空飛んでるような感覚になるじゃない?4Dみたいな感じ、あれと一緒。
ひとり旅だ、いやもっと言うと究極ひとりぼっちだって思ってたよ今まで。かきなぐったまま裸のユナモノガタリ実はたくさんあって、これはイギリスにやってきたばかりのひとりごと。
”こっちにやって来て6ヶ月くらい。ロックダウンでってのを抜きにしても正直自分でもわかるくらいやられてる。もしかしたら宇宙のどっかの星がおうちで、だからこんなに孤独を感じるんかなとか思いはじめるくらい(笑)いまはははって笑えるけどそんなくらい。
なんやかんやこっちきてさ、最近考えることちょっとある。機会もらったり勝ちとったり?して世界中いろんな場所に行けてるけどこういうのははじめてだなって感じる。白人、アジア人って人種の違いをおもいしる「外国」
自分がまわりの人と同じなのに同じじゃない。私の学部(オンラインだから全員知ってるわけじゃないけど)でアジア人はいない、というか留学生が2人しかおらんくて。ー万人規模の大学に通ってるけど日本人は私ともう1人だけ。とにかくびっくりするくらい初めてずくし。それくらい遠い場所にきたのも日々痛感する。
ふと思いだしたんだけど倫理の最初の方のクラスでさ、マズローの欲求階級説ってあったじゃん。一番うえがたしか自己承認の欲求だったけど下のほうに所属の欲求ってあった。もうねそこ、いまそこ(笑)
ガーナにも似ていることない?って最初は考えたけどぜんぜんちがう。差別がっつりはなくても小さいことはよくあるし。クラスメイトに何言ってるかわからんのだけど、ちゃんと話したら?的なことを言われたり(私の言ったことに返事してるんだから理解してるじゃんって思ったけど)、道端で知らん人が私にだけきこえるようにニーハオ言ってきたり、スーパーのレジで無視されたり。うーーん、なによりも無関心ってこんなに痛いんだって知るには十分な時間だったなって思う。”
コピペしたからちょっと話から外れてるところもあるけど、すごいbelongingを求めてた。いいタイミングなので昇化させて。パンデミックもあってみんなギスギスしてたのは絶対あった。いまは差別的なことされることないし。ただ、なにが言いたいかっていうとさ、ひとりだと思った旅が、自分守ってた鎧はがしてくれて、フリーダムしたから(羽目を外したわけではなく)人にアプローチできる余裕できたんだと思う。だから、自分が描いていたよりさわがしい旅になった(笑)うん、よかった。
コトーって観光地だからアクティビティもたくさんあったし、ボートツアーもできたんだけど、どれもなくても満たされたからやめた。代わりにPeratってバスで30分くらいの小さな街に向かってみた。
ここも絶好の海水浴場なのでひとはたくさんだったけど、もうマジョリティに消えていく感覚はなくなってた。
自分のすきなように海に揺られて、石道でちょっと迷子になって、17世紀の教会にたどり着いて、でもそれより、隣のおうちで洗濯を干してるおじちゃんの方が気になったけど、それでいいね。あんな風に歳をとりたいと思ったよ。
コトーからボスニア入りはちょっと調べきれなくて、宿のお姉さんが代わりに電話してくれたり(日本だったら当たり前かもしれないけど、イギリス人だとやらない人の方が多そう、チップ渡さないと)、バスラスト1席を予約した時も、現金手元になくてatm行くために荷物を駅員さん見張ってくれてて、バス来たから急いでって遠くから声かけてくれたり、優しさをうけました。まだ終わりじゃないけど、バルカンは人がほんとうに良い。すれてなくて、あったかい。
なんかさ、ネイティブアメリカンの概念に、贈り物にはスピリットがあって、これをずっと動かしていかなきゃいけない、そうすることで世界は豊かになり、心も豊かになるってのがあるのをいつか本で読んだの。私のイメージ、贈り物じゃないけど、誰かからのありがとうってそうやって繋がっている輪っかだと思ってるから、日常の中で自分も次へってできたらいい。
今日の私の内側いっぱいだ。読むの疲れちゃいそうあは
そろそろお開きにしましょ、今度はおわりの国、ボスニア・ヘルツェゴビナから。
ここまでどうもありがとう。
今日もなにか幸せな出来事がありますように!ラブ!
p.s. もうすこしPerat気になる人へ。ちら見せ。
ユナ旅モノガタリ 13カ国目(4)🇦🇱
どうも、すごい早起きをしまして、朝4時の冷たい空気のなか書いてみます、ユナです。冬みたいなcrisp morningじゃないけれど、夏の空気すき。夏だいすき。
ちょっと待ってから本を片手におさんぽに出かけた。さすがに4時には外でてないよ。みんなの中のイギリスのイメージってどんな感じかわかんないけど、治安がすごいいいわけじゃないの。stabbingって人を刃物で傷つけることが、言葉を選ばずに言うと日常茶飯事レベル。ロンドンはよくそれが起きる(エリアによる or even street)でもそれが私が住んでるような小さな町でも起きてる。同じサイズの隣町でも最近、大学生が狙われてた。だから、明るくても朝早くとか夜遅くのおさんぽは特に気をつけないといけなくて。なんでだろう。イギリス人に言わせるとこういう事件のほとんどは知り合いの中で起きることらしいけど、危険ってすぐそばだって気づいた出来事。
公園はひとがいなかったけど静かじゃなかった。動物と虫たちの朝は人間よりぜんぜん早い。これはのんびり本読んでられないやって思うくらい、リスは走り回ってるし、名前のわからない鳥がせわしなくおしゃべりしてた。ペラペラって本みてたら見つけた言葉。
「クリスタルをみがくことは、否定的な考えから自分を自由にすることなのだ」
これでなんの本かわかった人、もうわたしの友達です(笑)
ブログで言葉あそびをするのは私にとっての金属を純化する作業であり、クリスタルを磨くことなんだと納得した。それを見つけられたのも幸運だし、その役割がわかってより大事にしようと思いました。なんか小学生の感想文みたいになっちゃったな?
話はタイムワープしてアルバニアへ。大丈夫?ついてこれてそう?
前の紀行文はこっち。
最初に伝えておきます、このテスのお話はもうほぼshow offです(笑)綺麗だろういいだろうって言いたいがための2000字です。苦情はうけつけませぬ。
山を越えた先(ほぼ道中ねてたから気づいたら山のなかだったけど)に見えてきたのはテスの町。この町、そこそこ観光地なので中心部にちかいところの宿はちゃんと高めです、ご参考までに。ただ整備されてるリゾートタイプの観光地じゃなく、そのまんまで来る人増えちゃったなの観光地。だから素朴なままのこってる感じがした。
私は徒歩上り下り20分くらいかけたところの宿に泊まってて、そこのおばちゃん寮母さんみたいだったの。
着いたら汗だくのわたし見て水もってきてくれたし、サンダルで6時間ハイクしようとしてた私とめてくれるし、雨に濡れて帰ったら戻ってこれてよかった、シャワー浴びておいでってお世話してくれるし、ハグして迎えてくれて。言葉はほぼ伝わらなかったけどアットホーム。
ここで会ったお姉さん方のひとり、ブラジルからやってきたキュートなドクター、ルアナ。実は翌月、日本に帰るタイミングでロンドンに下りてったときに再会できちゃって、人の繋がりは妙で本当にふしぎ。こんなに広い世界なのにちいさいすぎる、だから探検することやめられないじゃん!知らないことがいっぱいなことがなんておもしろい世界なんだろう。ずっとピーターパンみたいな心を持ってたいと思うよ。
テス国立公園のことを説明したいんだけど、言葉がみつからないの。あれほどの自然ははじめて出会った。
ここでできることは2つ。
1. テスから片道3~3.5時間のハイクでブルーアイを見に行く
2. バルボナっていう隣町まで15キロほどのハイクをする拠点にする
私は時間とequipmentがどうにも足りず1つ目だけやってきたけど、けども、それでも行ってよかった!まず、なんていうの、町がアルプスの少女と風の谷を掛け合わせたみたいなところでそれだけで圧倒される。
ハイク途中水なくなったり、迷子になったり、滑りそうになったり、ひやひやしてたし、通りすがりのお姉さんにあとどれくらい?って聞いて半分くらいよって言われた時は、正直心折れた(笑)
でも周り見ると物語のなかを歩いてるみたいで、ドーパミンでっぱなし。
なんやかんや着きました、ブルーアイ。はい、ここ大事!attentionくださーい
見てこれ。目でみてるともっと透き通ってるし、もっと美しい。午前中のほうが綺麗にみえるらしい。
ぱちゃぱちゃ楽しそうって思うじゃんか、そしたら氷点下ですかってくらい水冷たいの。冷たいというより痛い。でも、ここまできたし、暑さでもう水欲してたから飛び込みましたとも。もうすごいマインドすっきりして中身まで洗われました。
帰り道、のこり1時間あたりで雨に降られ。ちょっとダウンな気分になりながら、雨宿りしてたの。
でも、ここからの景色は音がなくなったみたいでした。夕陽がさして太陽が山を映写してた。山があくびをしたみたいで。雨なんてなんてことって思ったのがなんて陳腐な感情なのって思うくらい。そのあとの世界はどこか神秘的で、もやの中に光がさしてた。ここで詩をかけるくらいの才能がほしい、切実に。
ほぼ私のリアルフレンドだけの、大してアクティブではない写真のアカウントがあるんだけど、せっかくなので名前の由来話させて。青の眼って思いついたのはこの瞬間。まだまだ未熟な自分だけど、たまたまラッキーで世界をこうやってまわることができて、なにかがわっと開くような瞬間に立ち会えて、出逢いが増えて、やっぱり返していきたいと思った。これを読んでくれているあなたは私の循環に入ってくれてます。ありがとう。青ってまだわからない色で、自分でもどこに向かっていくかわからなくても、この目でフィルターした景色、音、文字、色を伝えたいなんて思いました。Okotoってブルガリア語で目っていう意味なの。バルカンでの旅がこう思わせてくれたから「青のこと」と「a Okoto」って意味を込めて。いつか撮った写真で文通してみたいものです。
次の日の朝、もはや定番のように朝ごはんはでてくるんだけど、ここテスはhomemadeばっかりだった!ジャムは手作り、ミルクとハニーはご近所さんからの。パンケーキ食べきれないくらいだったけど、ジャムだけぺろりした。プーさんはきっとこんな気持ちでしょう。はちみつの壺をはなせない心情を理解した。
さて、とんぼ返りしたシュコドラ。
前にも話したけど、アルバニアのバスはむつかしい。なんでもない道がバス停だったりするから周りの人に聞いてくしかないのです。
ふらふらしてたら偶然、ここで泊まってた宿のお兄さんに会って、バス停確認とテス行けてよかったのありがとうを伝えられた。そんなこんなで日陰ごっこしてると、イタリア映画にでてきそうな昔の旅人みたいな人に話しかけられて。なんていうんだろう、すごいレトロ。オーストリアからやってきたトミーは元々biomedicalのメジャーでラボで働いてたけど、パンデミックで仕事がなくなって、それならって音楽をやることにしたらしいミュージシャン。ギリシャからオーストリアまでゆっくり旅してる途中だった。サランダ(ベラトよりもっと南、ギリシャに近い側のビーチタウン)から首都までバイクヒッチハイクしたり、モンテネグロ入ってからも帰りのバス逃して砂浜で夜を明かしちゃうようなクレイジーさ。ある意味すごいフリースピリット、笑っちゃうくらい。いつかウィーンに遊びにいこう、正直この時点でいろいろ話したすぎてウィーン着いていきたいくらいだった。
いろんなアドバイスをもとにモンテネグロへ。車窓から欧州一醜い首都なんてよばれてる、首都ボドコリッツァを横目にKotorに向かいます。(正直、社会主義色がつよく残ったせいで、無機質かつなにもなくなってる。ただただ観光目当てで来るからdissapointmentなんだろうという感じでした)
国境でモンテネグロの国旗を初めてた時、えかっこいい!ってひとり興奮してて、イミグレのお兄さんににやにやしちゃったのもう笑い話でいいでしょう。ちょっと中世っぽい?これ → 🇲🇪
ということで続きはまた次のお話で!
アディオス!